奈良県PTA協議会50周年記念講演

 

 期日 平成11年11月7日(日)

 場所 奈良県社会教育センター

 

 演題 「明日の教育を考える」

 講師 文部省生涯学習局生涯学習振興課長

    樋口修資先生

 

 講師プロフィール

  昭和28年9月5日生まれ(愛知県)

  昭和51年4月  文部省初等中等教育局財務課勤務

  昭和58年4月  富山県知事公室主幹

  昭和60年4月     総務部総務課長

  昭和61年4月  文部省官房政策課長補佐()臨教審総務課補佐

  昭和63年4月     高等教育局私学助成課補佐

  平成元年8月          私学行政課補佐

  平成2年7月     学術国際局国際企画課専門員

  平成2年10月          国際教育室長

  平成4年4月  福岡県教育委員会指導第一部長

  平成5年4月          教育次長

  平成6年4月  文部省高等教育局私学助成課長

  平成9年7月  放送大学学園総務部長

  平成11年4月  文部省生涯学習局生涯学習振興課長

 

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   ただ今ご紹介たまわりました文部省の生涯学習振興課長の樋口でございます。私は、金曜日の夜アメリカから戻ってまいりましたので、ちょっと時差ぼけがまだ直りませんので、お許しをいただきたいと思います。私は「明日の教育を考える」という、非常に大きな演題を与えていただいたわけでございますが、生涯学習時代、これからは、いわゆる生涯学習時代と言われるのですが生涯学習時代の中で、学校教育が、どういう役割を果たしていくかという事が、明日の教育を考える上では、非常に大切なことだろういう事で、そこに力点を置きながら、お話をさせていただきたいと思います。 いわゆる民族にとっての未来という問題は、民族の未来を考えない民族というのは、希望のない民族であるわけでありますから、教育というのは、未来からの留学生。子供たちは留学生であるわけですね、未来からの。それを現在に送り出してきている。その子たちをきちんと教育して未来に送り返すことによって、私たちの未来を築いていくという、壮大な営みが教育なんだという事で、教育に関心のない民族は、やはり未来というものに関心のない民族なんです。21世紀日本が、本当に豊かで、活力のある社会を作っていけるかどうかという事は、教育の中で、いわゆる未来を代表する子供たちを、きちんと送り返していけるかどうかに、かかっているだろうと思います。

 

アメリカの学校教育

 実は、この話を申し上げる前に、今回アメリカに私ども教員の海外派遣で、関東地域の教頭さんや教務主任さんと引率させていただいて、アメリカの公立学校教育を、16日間ぐらい見させていただきました。その時の経験をちょっと最初に申し上げたいと思います。アメリカの学校教育というのは、日本と違いまして、州に基本的な権限がございます。ですから50州ございますから、50のいわゆる州毎の教育の考えがございますので日本のように、中央集権的ではないわけであります。例えば先ほど6月3日、これが「教育の日」とご紹介がありましたが、6・3・3制をとっている州もあれば、そうですね8・4制とかですね、6・2・4制とかですね、5・3・4制とかさまざまな学校制度が州毎にございます。従いましてアメリカの教育をですね、ある州の教育を見たからと言って、アメリカの教育全体は、なかなか理解できない。その意味でアメリカの連邦政府は、この州毎にバラバラになっているのを、もう少し共通化しよう、もう少し基準化しよう、いわゆる日本的な形で、「学力」というものを基礎において、どういう事を教えるのか、教えた事を、きちんと評価するシステムを作っていこうという事で、今アメリカの教育改革は、いわゆる、どういう教科を学校で教えるかと言う、主要教科を設定する、その主要教科を設定したら、その内容を子供たちが履修したかどうかを、第4学年、第8学年、第12学年で共通テストを、州毎にやって頂くことによって、その州の学力のレベルを、評価をしていこう。こういう流れになってきております。今回私は、ユタ州の方を回らして頂きました。皆さん、ユタ州というとモルモン教の世界なんですが、ケント・ギルバートさんの親父さんが、市の監査役をやっているユタ州のプロボーシュという学校教育の現場を訪れさせて頂きまして、小学校から高校まで、拝見させて頂きました。私はアメリカの学校を見ておりまして、今回、四つほど非常に勉強になった事がございました。

 

自己充実感を大切に

 一点目は、アメリカの学校教育というのは、子供中心の、きめの細かい学習指導をする学校でございます。これは、今日本の教育改革がもっと子供を中心に据えて、子供たちの多様な教育ニーズに対応した教育をしていこうという事を、教育改革の理念の中心に置いている訳でありますが、アメリカは元々、ジョン・デューイという、教育家が居りますが、これから長い伝統の中で、学校中心から子供中心の教育を、きちんとやっていこうという事が、19世紀末から20世紀にかけて、ずっと長い伝統として息づいております。一クラスの中で様々なグループ別学習や個人学習が行われています。ですから学校を訪問しますと、クラスという物がどうなっているのか、時々分からない事がございます。クラスが相互にくっついたり離れたり、子供たちが色々移動している。クラスの中でも多様なグループ別学習が行われている。一つのクラスの中で、読みをやっている、読書をしているグループもあれば、一生懸命日記を書いているクラスもある。いろんなグループが一つのクラスの中で勉強している。この非常にきめの細かい学習活動が、学校で行われている。そして子供たちが、非常にアクティブに積極的に、授業に参加してきているいう事も、これは特筆すべき事でございます。日本の教育も変わってきておりますが、ややもすれば一斉授業で、教師の側から子供たちの側に、一方的に教え込むというスタイルが、中心でございますが、アメリカの教育は、子供たちを授業に参加させるという事に、非常に意を用いております。これは、アメリカの学校教育をご覧になられた方は、つとに経験をされている事だと思いますが、多様な授業学習形態が、そして子供たちの学習ニーズを踏まえた授業がある。そして子供たちが授業に参加できるように、教師が工夫をしているという事が、特筆すべき事でございます。そして授業の中では、子供たちを「誉める」という事を非常に大切にしてきています。私は日本で国際教育室の室長をしておりましたが、その時、日本にありますインターナショナルスクールを各地拝見させて頂きました時に、日本のインターナショナルスクールもそうなんですが、子供たちを誉める、セルフ・エスティーム即ち、自分を愛する事を子供たちに教える。自分が能力がある、自分は充実しているという事を、子供たちが学校の中で、そういう自己の充実感を獲得して頂く事を、学校教育の中の中心に置いているという事。これが、いわゆるアメリカの公教育や、日本におけるインターナショナルスクールの、中核的な問題としてあります。それに誉めることによって「自己高揚感」を子供たちに持たせるという事を、非常に大切にしております。

従いましてアメリカっていうのは、よくご覧頂くと分かるんですが、ホテル行きましても、写真が飾ってあるのを皆さん方お気付きですかね。そのホテルマンの、今月のホテルマン、今年のホテルマンとかいうのがありますね。学校もそうです。今週の教師、今月の教師、一年の教師、いわゆる最優秀の教師とか、最優秀の子供たちとか、最優秀のホテルマン、工場行っても最優秀の技能工・労働者を表彰する制度がございます。写真を飾って表彰するんですね。子供たちも表彰する。それは別に褒美を与えるのでなくて、子供たちに自己充実感を持ってもらう、自己尊重の気持ちを持ってもらうことを、非常に大切にする教育でございます。これが第一点、非常に私も感心いたしました。

 

地域コミュニティとの連携

 二点目は、家庭や地域社会の積極的関与の問題でございます。これは後ほど、PTA活動の問題についても触れたいと思うんですけれども、アメリカの学校教育というのは、非常に地域コミュニティとの連携、父兄・父母を学校の様々な活動に、ボランティアとして引き込んでくるという事について、非常に積極的でございます。先ほど申しましたが、きめの細かい学習指導をするには、多数のスタッフが必要です。私ども学校を見ていますと今回行きました学校は、一つのクラスに3人も4人も教える方がいる訳です。そうするとどの方が先生で、どの方が先生でないのかという事を、一々聞いていかないといけない。主要な先生がまず居ります。その後にティチャーズエイドという補助教員というみたいな形が、大学生であったり、大学は卒業したけれど教職に就いてない方が、時給6ドルぐらいで雇われて、教職そういう教育活動に参加している。そして父兄の方々が、私が行きました学校は、毎日50名ぐらいの父兄の方々、父母の方々が、各クラスで先生方の教育活動を、ボランティアとして支えて居られます。ですから、自分は読み書きの指導をしたい、自分は算数を子供たちに教えたいというボランティアは、どんどん教室の中に入ってきて、先生方と一緒に子供たちの教育にあたっている。日本のPTA活動は、催しに協力をする、ないしは教科活動以外のところで、色々協力するという事が、行われてきている訳でありますけれども、教科学習についても、アメリカの公立学校では、父母の方々やローカルコミュニティが、クラスの中に入ってきて先生と一緒に子供たちの教育を預かっている。これは非常に特筆すべき事でございます。これから、日本も公的財政支出が、なかなか難しいございますから、教員スタッフを増やして行くという事も、難しい局面がございます。もっともっと地域の力を借りて、学校を活性化していく必要があります。

父母の方々は、自分たちの持っている力という物を、学校の中に活かして行きたいと言う方も、様々出てきております。そういう方々を、学校の中に取り込んで学校の教科学習の中にも、ご協力頂くようにしていく必要がある。アメリカは、それが非常に進んでおります。ペアレンツ・フォローメント、父兄の学校の教育活動への積極的な関与が認められております。教育委員会が、これを積極的に奨励しているという事が、アメリカの公立学校教育の特筆すべきところでございます。

 

規律の重視

 三点目は、規律ある学習環境の問題であります。アメリカの公立学校というのは、薬物ドラッグがあったりとか、アルコール問題、タバコ問題、学校内暴力、コロンバイン高校における銃の乱射事件。何か暗い話ばっかりではないかと皆さん思われるかも知れません。私も、アメリカの公立学校を何度も拝見さして頂いていますが、確かに大都市部、例えば、ロサンゼルスやニューヨークにおける、公立学校では、そういった問題生徒、問題行動というものが多発している事も事実であります。しかしアメリカの公立学校は、教育委員会の方々も学校の校長先生等も、規律ある学習環境というものが、学校教育の大前提として、これを学校経営の中できちんとしていくという事について、意を用いておられます。従いましてアメリカの公立学校、私が行きました所も、授業時間中は廊下に一人の子供も出ておりません。ご案内の通りアメリカは、中学校以上になりますと先生が教室を持っていますから、そこの所に子供たちが通ってくる。日本と違います。先生が持っている場所に子供たちが移動してくるという事が、まあアメリカの公立学校教育ですね。従いまして移動時間は5分間と校則で決められている学校もございました。今回行きました学校もそうです。そうしますと移動の時間は騒がしいんですけれども、移動して各クラスに入るとぴたっと静かになります。廊下には一人の子供もいません。ですから移動時間中は本当に子供ならではの騒々しい時間が流れますが、5分過ぎると廊下には人っ子一人いません。ですからもし、トイレに行きたいというお子さんがいれば、「わっか」見たいな物を貰いまして、先生から廊下に出ても良いという、その証明の「わっか」を貰って、トイレに行くという事になるわけでございます。アメリカの学校では、廊下を巡視するセーフティ・パーソネルという、いわゆる学校の安全を確保する為のスタッフが居ります。そして、中学校以上になりますと、警官が来ております。教育委員会にお話を聞きますと、市の警察と委託契約を結んでおりまして、中学校以上には、警察官が常駐したり、ないしは各学校を巡回して頂くという制度がございます。実際お会いしてお話しますと確かに腰の所には、ピストルを持っていました。「使ったことはあるか?」と言ったら「使ったことはないし、使うことも無いであろう。」しかし抑止力として、アメリカの公立学校では、確かに色んな問題行動がございますので、規律ある環境を守らせるためには、その安全に関わるスタッフが居る、という事と警官が常駐している。そして規律ある環境を守らせるという事。ある校長さんが言っていましたが、「子供は教室にいて勉強するものだ。これがゴールデンルールだ。」と仰っていました。これはどこの学校に行きましても、授業時間中に廊下に子供が居るという事は、一切ございませんでした。これは日本の学校教育、考えてみますとこれは違うなと、ちょっとここは心して考えないといけない。アメリカは確かに色んな問題行動・問題生徒もございます。しかし校長先生を始め学校の教員が、規律をきちんと守らせるという事については、日本の校長先生や教員の方々以上に、意を用いております。そしてそこは厳格にやります。これはアメリカの家庭教育も同じでございます。もともとキリストの原罪意識がございますから、子供を厳しく躾るという事については、アメリカの方々は、非常に意を用いている訳でございます。私、今回見ておりまして、本当に「規律ある環境が、学校教育の大前提だ。」という事を、口々に皆さんが仰っていた事に非常に感動をいたしました。それともう一つは、ある学校を訪問しますと、国旗掲揚式というのを、毎日朝礼の時にやられるわけであります。これは特別の儀式ではない。毎日やっておられる。ある小学校に行きますと、もう朝礼の儀式に、国旗掲揚台の周りに子供たちが500人、輪を作って並んでるわけです。そしてそこに、いわゆる国旗を持った児童会の子供たちが十数人整列をして行進している。そして国旗掲揚台の所で、その国旗をロープに挟込んで掲揚する訳であります。これを毎日やっている。そして国旗掲揚が終わりますと、当然皆さんが胸に手を当て、アメリカの国歌を皆さんで歌われる。それをきちんと毎日やっておられる。私はこういった事は、校長先生が仰っていましたけれども、「規律ある環境を作るためには大切なことなんだ。」という事を仰っておられました。どのクラスにもアメリカは国旗があるんですね。これはアメリカの学校を見られると分かると思うんですが、どのクラスにも小さな国旗がある。これはアメリカンフットボールの試合を、ちょっと土曜日に見に行った時にも思いましたけれども、65000入るアメリカンフットボールのスタジアムで、みんな騒々しいんですね最初は。ところが国歌斉唱といいますと、静かになって起立して、胸に手を当てて、そして、国家を皆さん歌われる。これは非常に感動的なところがございます。今回、国旗国歌法案が日本でも成立した訳でありますけれども、やはり私どもは、国を愛するという事を、きちんと考えていく必要があるだろう。アメリカは、そういった事については、本当に意を用いてやっておられると思いました。アメリカの学校教育は、確かに、学力を付けさせるという事にも、非常に力を使っている訳でありますが、同時に人格教育という事について、皆さん方不思議がられるかも知れませんが、人格教育という事について非常に関心を持っております。子供たちは社会化させないといけない。ソーシャライゼイションという言葉をしきりに言っておりますけれども、子供たちは学校と社会を、どういう形で円滑に、トランスファーして行くか、移行さして行くかという事について、学校教育は責任を持っていないといけない。ですから、学力と共に社会性を、基本的な躾を、家庭と共に、身に付けさせるという事。そして、他者へのリスペクト、尊敬というものを持たせるという事。それと個人が自由であると同時に、リスポンスビリティ、責任ある個人にならないといけない。アメリカ人はリスポンスビリティという言葉が非常に好きなんですが、その責任という事を全うしない人間は、個人として認め難いという、そういう考え方を持っております。 こういったアメリカの公立学校教育は、ややもすれば問題が指摘されている訳でありますけれども、非常に規律というものを大切にしているという事を、皆さん方ご理解いただきたいと思います。ですから、アメリカの学校の子供たちというのは、「茶髪」は当然いない訳ですよね。みんな「茶髪」な訳ですけれどもある意味では。本当に小ザッパリしているんですよ、子供たちの服装が。子供らしいんですね。その意味では私は、非常に驚きました。それから、確かにアメリカでも問題あります。ドラッグフリーとかですね、煙草フリーのワッペンを、子供たちが小学生から付けている。それ何なんだと言ったら、学校の校長さんが、「やはりドラッグの問題とか、煙草の問題とか、アルコールの問題ってのは、中学校の高学年から高校になって出てくるんだ。それを小学校の時から、きちんと教育して行かないといけない。子供たちをきちんと教育していかないと、この子供たちが、悪の道に染まってしまうので、だから小学校の時から、ドラッグフリー、アルコールフリー、煙草フリーという事で、煙草もダメよ、ドラッグもダメよ、アルコールもダメよという教育をきちんとしています。」という事を言っております。それから、ガンコントロールの問題があるんですが、実はある高校に行きました時に、退学事件がちょうどその日にあったんですが、ご案内の通り、コロラドのコロンバイン高校で、銃の乱射がございましたね。アメリカは今、非常にナーバスになっています。その高校もですね、模造ガンを持ってきた高校生がいまして、その日見付かりまして、直ちに父兄が呼び出されて、その日の内に退学になったという事を、校長が仰っていましたけれども、許される事と許されない事がある。許されない事は、当然子供でも許されない。その事については責任を取らせるという事で、その日の内に退学をさしたと言う話がございまして、アメリカはそこは厳しいところがあるなと思いました。それから、問題生徒の問題は、確かにアメリカでもございます。特に大都市を中心にして、問題生徒という事が、非常に頭が痛い問題としてございます。しかしアメリカを今回、回らして頂いて、非常に面白かったのは、校長や教頭が問題生徒に対応するという仕組みでございます。教室の中での問題については、各教員が対応するけれども、クラスを越えて、ないしは学校を越えて、問題行動が拡がっていく時には、それは校長や教頭の責任である。個々の教員は教育に専念すべし、という事を非常に強く言っていました。一緒に行きました教員の先生方が、「やあ、日本でもああなったら良いな。もっと教育に専念出来るからいいな。」と仰っていましたけれど、私もそう思いました。学校の先生方がもっともっと教育に専念出来るように、問題行動や問題の生徒さん方に対しては、もっとシステマティックに教員以外の方が、当たるようなシステムが必要なのかなと。その意味ではスクールカウンセラーというものが、アメリカの場合きちんと学校の中にいて、そういう問題を抱えているお子さんの、カウンセリングに当たっているシステムが、ある訳でございますので、システム的にも、アメリカの学校教育というものは、私は、かなり見習うところがあると思いました。

 

コンピュータと教育

 四点目は、コンピュータ教育であります。今、私共、このコンピュータ・リテラシィを日本でも高めていこうという事で、一生懸命 情報教育に取り組んでいる訳でございます。2005年目指して、今、子供たち18人に1台のコンピュータが、日本の学校では有るんですが、アメリカでは一般的に5人で1台の、コンピュータを利用できるような環境にあります。日本の場合は18人、アメリカの場合は5人、これを2005年までには、アメリカ並の水準にハードウェアを整備していこうと、計画を持っている訳であります。アメリカは本当にコンピュータ教育が進んでおります。拝見した学校はどこもかしこも小学校からコンピュータ教育をやっております。低学年の子供たちが本当にコンピュータに慣れ親しんでいる。各クラスにコンピュータが2,3台ずつ有るんですね。日本のコンピュータ教育を見ていますと、どっか集中したコンピュータルームに中にコンピュータが後生大事に仕舞われていて、コンピュータの教育の時だけ、そこに行って授業を受けるという事があると思うんですけれども、アメリカの場合はコンピュータルームはコンピュータルームで有るけれども、別途各クラスにきちんと2,3台、いつでも子供たちが慣れ親しむことが出来るように、コンピュータが置いてある。放課後や授業時間の合間に使う事が出来るような環境が、整備されているんですね。子供たちに聞いたら、ホームページを作ることが出来るし、Eメールアドレスを、子供たちが持っているという話を聞いて私は驚きました。先生方が、Eメールアドレスを持っている事は、理解出来るのですが、子供たちが、Eメールアドレスを持って、そして、学校外の方々と色んな情報交換が出来るという環境があるという事は、これは日本は 相当遅れているなと思いました。アメリカの中学校を見ましたけれども、その中学校の2年生ですけれども、キーボーディングというのが、必修になっているんですね。

アメリカの公教育というのは英語、英語というのは国語ですね。英語と数学と理科と社会、これがコア・サブジェクトと言って、この4つは全ての学校でやらないといけないという事を、今きちんとさせています。もう一つは、コンピュータ教育ですね。中学校からのコンピュータ教育。コンピュータ教育は、キーボーディングと言いまして、ブラインドでキーの位置をきちんと覚えてやるんですね。小学校の頃からやっているんですね、子供たちは。コンピュータ教育、コンピュータの時間になると、まず15分くらいはキーボーディングと言って、手先の練習をずっとする。その手先の練習が終わると、初めてコンピュータに取り組んで、色んな情報を集めて、それを工夫しながら、資料を作っていくという総合学習を、コンピュータを使った総合学習をやっているんですけれども、非常に進んでいる。ですからアメリカの場合、コンピュータを教えるという事がない。コンピュータを使って教えるという事が当たり前になってきている。日本の場合はコンピュータを教えるというのが、今現実なんですね。コンピュータを教える先生方が、どれだけ日本にいるかという事になると、この間調査結果が出ていましたね。コンピュータが少しでも分かる人が、学校の先生の半分だ。50%ですね。コンピュータを使って、子供たちを教える事が出来るという先生は、25%なんですね。4人に一人。ですから日本のコンピュータ教育というのは、まず学校の先生方がコンピュータを使えるようにならないといけない。そこから始めないといけない。アメリカの場合は、もう子供たち自身がコンピュータは当たり前のように使えるような、環境になって来ている。これはやはりですね、大きな差がありますね。これからは経済がグローバル化する。情報革命、ICT革命ですね。これが、情報革命が進んでくる。そうすると情報とグローバリゼーションというのは、避けては通れない課題になってくる。その時には、国際化という事では語学教育、情報革命という事ではコンピュータ教育。ここで日本の学校教育が、決定的な遅れを取っていやしないか、やはりこの事について、私は危機感を持った訳であります。それから面白いなと思ったのは、アメリカの場合は授業の出欠を取る時に、コンピュータを使って、ずっとやっているんですね。わたしは各クラスを見ていましたら、ちょうど授業が始まる時に、出欠を取っているん ですけれども、マイクを使って先生方が「マイケル」とか「ジョージ」とか「スミス」とか名前を呼んで、コンピュータに入力しているんですね。出欠をもうコンピュータで取っているんですね。「えっ、そんな事やっているんですか?」と聞いたら、「もうどこのクラスでもやっているよ」と、もうコンピュータで出欠を取るんだ。そしてコンピュータでの出欠状況というものが、今度は家庭で父母の方々がアクセスして、子供たちが学校へ行っているかどうか、子供たちは「行っている」と言ってるけれども、実際に出席しているかどうかを家庭でアクセス出来る。「あっ、今日学校行っている。子供たち休んでない。」という事がすぐ確認できる訳で有ります。子供たちの出欠について、アメリカでは本当に厳しいです。9割以上出席しないと、単位を与えない。今アメリカの学校はですね、大きく変わろうとしているのですけれど、これまでは、出席率だけだったんですけれども、試験をやって、試験の成績が一定の基準に達しなければ、進級をさせない事を、ユタ州では、来年から導入すると言っていました。まあ今までは、ソーシャルプロモーション、社会的な昇進という、要はどういう意味かと言いますと、出来ても出来なくても次の年度に送ってしまうという事を、今までやってきたけれども、これからは2000年度からは、テストを導入して、その成績が悪ければ進級をさせない、という事になるようです。 しかし、出席率については、今までと同様90%の出席率がなければ、これはだめだ。その点については出席率管理には、非常に厳しいございます。

 

アメリカの学校教育のまとめ

 こういった四点がですね、今回、アメリカの公立学校の教育を見てて、わたしは非常に感心しました。そして付け加えるならば、子供たちに集まっていただいて、ちょっとお話を聞いたんです。子供たちにまず何を質問しようかとして、「君たちの将来の夢は何かな」という事を 最初に聞きました。そうするとですね、アメリカの子供たちはすぐに答えるんですね。手を挙げて、「科学者になりたい。」「宇宙飛行士になりたい。」「パイロットになりたい。」「レストランを経営したい。」「アメリカンフットボールの選手になりたい。」 すぐに、答えが返ってくるんです。 どうでしょうかね、日本の子供たちを集めて、「君は将来何になりたい?」と言ったら、「別に・・・」、「考えたこと無いな。」という答えが返って来るんでは無いでしょうか。アメリカの子供たちってのは、将来への夢、アメリカンドリームの社会ですから、非常に夢っていう物を持ってますね。 これは、日本青少年研究所という所がございますが、この「21世紀の夢に関する調査」というものが有るんです。 これは日本とアメリカと中国と韓国の4ヶ国の、中学生と高校生の夢についての調査をしています。21世紀について、どういう夢を持っているかという調査を、日米中韓の4ヶ国で比較調査したんですね。際立っていることは、日本の子供たちが、全くもって「現世的」なんですね。 未来に関心がないチャレンジ精神がない若さがないという事が この21世紀の夢に関する調査で現れたんですね。 見ててお分かりかと思うんですが、今の日本の子供たちは、ほんとに現世的な感じに なってきております。未来に対して関心がない、夢がない、これが際立っています。ところがアメリカの子供たちは、非常にアメリカンドリームと言うんですかね、 自分はこうなりたい、将来こうやりたいから今こう勉強したい、だから今こうするんだ、という事について考えています。 学校での勉強というのは、やはり未来に希望を持っているとか、夢を持っていないと学業というのはなかなか続きません。学業の根っこの所には、やっぱり「自分を大切に する」という事と、自分の将来に対しての「夢を持つ」という事が、やっぱり勉強を進める上では非常に大切だ。 日本の子供たちはそういった意味では、豊かさの中で夢を失っている。 その事が日本の学校教育に、非常に大きな影を落として来ていると思う訳であります。たぶん、日本の国語辞典を引けば、「夢」というのは、「はかないこと」、「叶わないもの」と出ているんですね。ところがアメリカの辞書には、夢は「叶うもの」。 夢と言うものについての考え方が、どうも日米で開きがある。アメリカンドリームですね。ウォルトディズニー。ロサンゼルスとかフロリダ・マイアミにもディズニーランド・ワールドが有りますが、ウォルトディズニーが「If you dreamt,you can do it.」 という言葉を言っていますが、「夢見ることが出来れば、実現する事が出来るよ」という事を言ってます。 ウォルトディズニーは、非常に「夢」という物を大切にしてますね。

ディズニーランドとかワールドのテーマとして。アメリカ人というのは、そういう「夢」を追いかける人たちの集まりであって、アメリカンドリーム、そこの中で機会は全て開いていく。「結果については、平等は保証しないけれども、機会を全ての人に開いて、夢を追いかけなさい」という考え方を持っている。もっともっと、日本の子供たちにも、「夢」を持たせるような、そういう家庭や学校や地域社会での取り組みが、必要なんだなというふうに私は思いました。 すると先生の事について一言有るんですが、アメリカの今の教育改革は、教員に報酬制を導入するという事を連邦政府が打ち出しています。 日本でも東京都を始め教員の報酬制の話が出てきております。 今回、ユタ州の教育長にお話をお聞きした時に、「報酬制の話が連邦政府で、確か改革 提言されている訳だけれども、どういうふうに思われますか?」とお話ししましたら、「プロボーシュでは連邦政府が言っても私共はやらない。報酬制は必要ない。報酬制は、たぶん、優秀な教員と優秀でない教員というのは、子供たちが優秀であるクラスかそうでないクラスかという事になっていくだろう。しかし私たちが教員に希望するものは、私たちは問題のある生徒、いわゆる教え甲斐の有る生徒を教えることが大切なんだ。自分で学ぶ事が出来る子、そして、いわゆる出来る子を教えている先生が優秀な先生ではない。教え甲斐のある、有る意味では 『at risk children』、『problem children』と いう言い方するんですけれども、危機に立つ子供たち、問題を抱えている子供たちを、きちんと教える事の出来る先生の方が、立派な先生なんですよ。 ですから、その人たちを、子供たちが出来たか、出来なかったによって、報酬を上げたり、上げなかったりするのは宜しくない。」という事を仰っていました。それは教育長の自負としては、非常に感心をいたしました。「教員の採用時にも、あくまでも子供中心の、子供の立場に立った教育を出来る人を、私たちは採用する。」という事を仰っていましたが、これもアメリカの学校教育の、長い伝統として、私は非常に感心をいたした訳であります。以上が非常に雑ぱくな話になりましたが、アメリカの学校教育を、今回、拝見さして 頂いた感想でございます。しかしアメリカの学校教育は、州によって多様でございます。地域によって、多様で ございます。しかしそれぞれの地域が、それぞれの地域の実情に応じて子供たちを教育していくという姿は、やはり見習うべきだ。本も、今、地方分権、もっともっと地域に根ざした教育を、行っていこうという事を、言っている訳でございますが、アメリカと同様に、それぞれの県やそれぞれの市町村の 教育委員会や、学校の現場の方々が自らの当事者能力を持って、当事者責任、自己責任の感覚でもって、私たちは子供たちの教育に当たって頂く事が、最も大切だ。 東京では、本当に子供の実態が分からない。学校の実態が分からない。 それぞれの地域で、この奈良県で、この橿原市で、そしてそれぞれの市町村のところで、地域の実態や子供たちの実態に応じて、教育を組織していく事が最も大切な事でありまして、これからは国が言うから、ないしは県が言うからという事で教育を考えていく必要はない。もっともっと学校単位で、それぞれの地域単位で、教育を考えていく必要があるだろうと、思う訳であります。

 

これからの教育

 そこで、本題に入らせて頂きたい訳でありますけれども、「明日の教育を考える」、という時に、これからの時代は、私は生涯学習の時代だと思っている訳であります。 生涯学習という事は、これまでは平均寿命が50歳まで。 人生50年が人生80年になって、そうすると、これまでは学校教育の中で、 学校教育卒業後の残された人生に、必要な知識や技術を教えさえすれば良い。 そして社会そのものも、こんなに急激に変わっていくような社会で、なかった訳で ありますから、社会がどちらかと言うとダイナミックでない社会、人生50年の時代には、学校教育は、学校教育の中で、残された人生に必要な知識や技術を、子供たちに与えさえすれば良かった訳であります。しかし、これからの時代は人生50年から人生80年になった。大学を卒業しても60年の人生生活がある。そして社会環境も非常にダイナミックになってきた。今、家電製品を見ても、コンピュータを見ても、何を見ても、3年・5年のサイクルで、どんどんどんどん変わっていく訳であります。 そうすると、学校の中だけで学んだ知識や技術が、学校を出たときに、その後60年の長い人生の中で使えるとは、とても思えない訳であります。 大切なのは学校の中で、基礎・基本は教えるけれども、もっと大切なのは、「学び方を学ぶ」「Learn how to learn」、学び方を学ぶという事が、最も大切だと思う訳であります。 学校教育は、先生方にこう言うと、お叱りを受けますけれども、あくまでも強制によって 成り立っているんですね。 就学義務を親に課して、子供たちに、9年間の義務教育は受けさせなさい。 高校も大学も出来るだけ行かせるようにしなさい。こういういわゆる「強制の枠」がある訳です。子供たちは学ばざるを得ない。学ばないといけないという意識に、とらわれます。しかし、子供たちが学校を卒業した時には、この強制のタガが外れる訳であります。 そうした時に子供たちが、もし学ぶ事について、興味・関心を持たなければ、 その子供たちは、社会人として豊かな職業人生、あるいは豊かな人生を送る事はもう今日不可能であります。子供たちが、学ぶ事に興味・関心を持って、生涯にわたって学び続けるような人間で ないと、これからの時代は生き抜いていけないと思うのであります。 その意味で学校教育の中では、将来にわたって学び続ける事が出来るような、その基礎的な自己学習の力を、基礎基本と共に身に付けさせる事が、非常に大切になってきている訳であります。

 

自己教育力を育てる

 大きく時代や社会が変わってきて、これまでのようにダイナミックでない社会。人生が50年の社会。これが破綻した訳でありますから、これからは学校を卒業しても、供たちが学び続けるような、そういう学力を、本当の意味での学力を、子供たちに身に付けさせないといけない。日本には元々、古い諺でございますね。「好きこそ、物の上手なれ」、好きこそ物の 上手なれ、という事であれば、子供たちに理科や算数や国語や社会という物の、ある部分を「僕はここが好きなんだよ」、「算数は好きなんだよ」、という事を子供たちに 意識させれば、学校教育は8割方、成功したんじゃないでしょうか。学校教育の中で、教育された人間を作り出すことは、もう出来ません。子供たちを、物知りにさせさえすれば良いとお考えならばそうすれば良いです。しかし、物知りにさしただけでは、人生80年時代は、もう生き残る事は出来ません。それはもう、恐竜みたいな物なんですね。それは、こういう現代の大きく変わりうる環境には、適応出来ない訳であります。ですから、子供たちの将来を考えるならば、基礎基本をきちんと身に付けさせると共に、学校教育が終わった後に、子供たちが学び続けるような、そういう自己教育力を、身に付けさせるように、学校の先生方にもお願いしたいし、父母の方々もそういう意識で、子供たちの教育に当たって頂きたいと思う訳であります。「考える力」を大切にそして、これまでは「知識集約型」、「知識重視型」の学校教育でございました。 これ、よく言われるんですけれども、確かに知識は多ければ、私は悪くないと思います。しかし人間の頭には限りがあります。そして、知識もこんなに増え過ぎますと、どの知識が大切でどの知識が大切でないかという事については、非常に難しい時代に なってきております。そうしますと、学校教育の中では、色んな知識があるけれども、この知識は最小限、子供たちに持っといて頂きたいという知識を、きちんと身に付けさせよう。自分たちの学習で身に付けさせられるような物については、後々、子供たち自身が 身に付けるように、発想を転換していく必要があるんじゃないか。「量の知識感」から「質の知識感」に転換していく必要があるんではないか。学校教育の関係者や、やはり家庭・地域の方々も、教育という事を考えると、どうも知識の量という事に、囚われがちなんですね、これまで。ですから、少しでも多く、少しでも正確に、少しでも早くという事を大切にする。それを、最も体現しているのが、塾なんではないでしょうかね。より早く、より多く、より正確にという事を、塾は集約型でやっている訳でありますね。学校教育も、あまり塾を批判出来ないのは、ある意味では、同じような事をやってきて いる訳で、これからは、もう少し、ゆとりの中で、子供たちに、確かな学力を 身に付けさせるように、考え直す必要があるんだ。その時に、基礎基本だけでは、これは知識。もっと大切なのは、考える力をどうやって 子供たちに身に付けさしたら良いのかと、いう事を考えないといけない。これは、私は非常に難しい課題だと思います。考える力を育成するという事は、教育改革のコンセプトとして、申し上げているのですけれども、これを学校の中で、家庭の中で、教育で考えるという事は、非常に難しいございますが、これを考えていかなければならない訳であります。考える力がどうして必要かという事は、これは自明の理なんですね。これまでの日本の社会は、明治以来、司馬遼太郎が一番読まれているという事が、新聞に載っておりましたけれども、司馬遼太郎の「坂の上の雲」ではありませんが、明治以来の日本の国家というのは、「追いつき追い越せ」キャッチアップ型の社会でございました。経済もそうでありました。キャッチアップですから、追いつく対象があった。欧米の先進国に追いつく。ですから先進国モデルを日本の中に導入して、それを知識として取り込んで模倣するという事が、必要であった訳です。しかし日本の経済は、バブルがはじけて難しい時代にはなりましたが、先進国型になった訳ですね。フロントランナー型の時代や社会になった訳です。キャッチアップ型の「追いつき追い越せ」から、フロントランナー型の、いわゆる先頭を走っている走者なんですね。日本は今まで、後ろから追いかけていた。アメリカやイギリスやフランスを見ていれば良かった。しかし今、先頭を走っている走者としては、自分の前には何も改革のモデルがない。 自分の前には何も模倣する物がない。とすれば自分たちで、改革のモデルや自分たちで、なにかモデルを作り出していかないといけない。そうすると知識集約型の知識重視型の時代や社会をというものを、変えていかないといけない。考える力、総合的な企画力、着想力、表現力、想像力といった物を身に付けた社会人を、育成していかないといけない。学校教育に期待される、時代や社会の要請という事も、大きく変わってきている。この中で考える力という事が、今、学校教育に要請されているんだ。ですから、これまでのように、「学ぶ」という言葉は「まねぶ」という言葉から出ている訳でありますが「まねぶ」だけでは充分ではない。「学問」という字は、解体して頂くと分かるんですが「学ぶ」という事と「問い」であります。これまでは「まねぶ」、模倣する事でまだ生き残ってこれた。これからは「まねぶ」 だけではない。「問い」を発して、何故なのかという事を、「問い」を発して、「どのようにして」、「How」、「Why」という事を大切にして、子供たちが「考えていく」という事を 大切にしていく、教育にしていかないといけない。 例えば、歌舞伎の世界をとらえると、門前の小僧のように師匠さんの型を「盗む」。この「盗む」、真似をする、「真似る」事から入るわけです。しかし、伝統の技法を真似をするだけでは、歌舞伎も生き残ってはこれなかっただろうと思いますね。伝統の巧みというものは「真似る」次に、今度は「問い」を発して伝統を確信していくという、こういう営みが無ければ、歌舞伎も伝統的な様々な文化も、現代にまでは語り伝えられて来なかったであろうと思うわけであります。伝統という物も、確信されながら現代に引き継がれてきている。「真似る」という事から、今度は「問い」を発して、伝統を確信していくという事が、やはり必要だ。勉強は強いるものでありますけれども、学問という物は、「学び」、「問い」を発し、伝統を確信していく。そういう教育というものを、学校の中でやらなくてはいけない。大学だけが学問をする所ではなく、もっと小・中・高等学校の段階で、子供たちに、基礎基本を真似をさせる、「真似る」、ドリリングをさせる、訓練的な要素がございます。と同時に、真似をして習得したら、今度それを使って「考える」、それについて、知力を使って考えるという教育をしていく事が、併せて必要になってくる時代になってきていると思う訳であります。

 

情報化社会と教育

 私は先ほど、「量の知識感から質の知識感へ」と申し上げたのは、これは時代や社会が、大きく変わってきていると申し上げていますが、情報革命が一番大きく作用しております。 今、学校が持っている情報というのは、非常に限られております。明治の学校というのは村の、町の中心でありました。そこに全ての教育と、全ての情報が、知識があったわけであります。しかし今、子供たちや、大人たちもそうでありますけれども、もう学校だけが 知識の独占の場ではない。最先端の知識の場ではない。コンピュータを使えば、インターネットを使えば、子供たちが瞬時にして、家庭で、地域で情報を取り出すことが出来るんですね。そういった意味では、学校教育の相対的な比重の低下は、これは覆うべきも無い時代状況にある。ですから情報革命の時代の学校教育というのは、転換をしていかないといけないと思うんですね。情報をうまく使って、教育をしていく必要がある。私たちの子供たちに、コンピュータチップスを頭に埋め込むとか、百科全書を頭の中に埋め込んで知識を教え込めば良いという時代は、やはり、もう終わったんじゃないでしょうかね。知識を競い合う時代はもう終わった。知識をうまく使うような、基礎基本の知識を持って、うまく知識を引き出して、それを知力を使って現実に当てはめて、何か物事を動かしていく、そういう時代に なってきたんではないでしょうか。

 

規範意識の低下と教育

 同時に、生涯学習時代というものは、ほんとは学校教育だけではなく、学校教育は相対的に比重が低下すると申しましたから、もっと家庭や地域社会が教育力を向上さして、家庭・学校・地域社会の教育のネットワークで、教育を充実さして行かないといけないと思う訳でありますが、残念ながら、PTAの取り組みも色々あろうかと思いますが、家庭や地域社会の教育力が低下してきております。どうしても、豊かさの中で、都市化の中で、少子化の中で、家庭や地域社会の教育力が、低下してきております。これはどこの先進国もそうでありますね。いわゆる文明病であります。豊かさの富の副作用というんですかね。豊かさがやはり子供たちの、いや、大人もそうですが、規範意識を低下さしてきている。これは先進国の共通の問題だろうと思います。ですから、子供の規範意識の低下というものは、社会人の規範意識の低下でもある。それが子供に集中的に現れてきているんじゃないか。子供たちが、今見ておりますと豊かさの時代に、心だけが萎えている。さっきは夢を失いつつある子供たちと言いましたが、飽食の時代の、精神の飢餓と言うんですかね。物が満ち溢れるような、飽食の時代に、心だけは貧しく飢えているという、飽食の時代の精神の飢餓というのが、子供たちに集中的に現れてきているのじゃないか。もっと子供たちに、やっぱり心の豊かさというものを、どういうふうに培っていくのかという、心の教育というものを、家庭でも、学校でも、地域社会でも、考えていかないといけない時代になって来ているのではないかなと、思うわけであります。その意味では、私ども文部省が「全国子供プラン」という事で、もっと家庭や地域社会の教育機能を、意図的、計画的に組織して、そして子供たちの体験活動、教育活動の場を、充実していこうと考えてきているのは、結局、これからはもっともっと下支えしないと、なかなか地域社会や家庭の教育力は向上して行かないのではないか。こういう問題がございまして、私ども今、取り組みをしていると、ご理解をいただきたいと思う訳であります。このように生涯学習時代の教育を考えますと、本当に教育を取り巻く時代環境が、大きく変わってしまいましたので、学校の関係者は、さぞ寂しい思いをされていると思んですけれども、頭をちょっと切り換えていかないといけない。父母の方々も切り替えていただかないといけないと思っているんですね。学歴社会で、ご案内の通り、今までは、高学歴であれば、社会的には成功するだろうと思われてきたのですが、バブルがはじけて、皆さんご案内の通りですよね。高学歴でも社会に出ても、ろくな事はない。お縄を頂戴する人間もエリートといわれる中から沢山ありますし、高学歴でも、社会的には訳の分からん事をする人間が、沢山出てきています。もともと学校教育というのは、知識は持っていても、人格は別物だったかも知れません。もっともっと、学校教育というものは、人格に裏打ちされた、知識というものを、考える力というものを、身に付けさせるべきものでしょうけれども、どうも人格と切り離された教育が行われてきた。人格と結合した教育を、元々やるべきであろうと思うんですけれども、最近の色々な現象を見てると、どうもそうは言えないという事が、分かってきております。

 

学歴社会の揺らぎ

 学歴社会は無くなったのかと言われると、学歴社会は無くなったと皆さんは思われないでしょう?。私も学歴社会は、揺らぎはあるけれども無いとは言えない。しかし、学歴社会が大きく揺らいでいる事は、皆さん方、認められると思うんですね。母親方が、学歴社会だから、子供たちに良い学歴を付けさせてやろうという事で、一生懸命塾通いとか、一生懸命勉強をさせようとしますけれども、学歴社会は確かに大きく揺らいで来ています。それは父親が分かっています。母親以上に父親が企業の中で、社会の中で、やっぱり変わってきている。日本型雇用構造が、大きく変わってきている。年功序列が揺らいでいる。一括採用の制度も変わってきている。年俸制に切り替わってきている。中途で首を切られる事も出てきている。本当に雇用構造が変わってきております。今までみたいに、良い大学を出たから、良い企業に就職できて、良い社会生活を送れるだろうという時代は、もう終わってしまいました。社会人になっても自分で学び続けて、知識や技術を身に付けていかないと、生き残っていけないような時代になってしまった。 どこかの良い大学を出たからといって、安穏として社会生活を送っていく事は、

非常に難しい時代になってきました。もう一つ、大学入試の問題を捉えますと、大学入試の圧力というのは、相当に今緩和されているんですね。2009年には、大学の志願者と大学の受け皿が、ほぼイコールになるんですね。ですから、大学に入りたいというお子さん方は、どこの大学かを選ばなければ、行けるような時代が、もう2009年には来ます。今、高校を卒業された方の49.2%の方々が、何らかの形で高等教育、大学短大に進んでおります。専門学校に進んでいるお子さんを入れると、もう7割のお子さん方が高校を卒業して、いわゆる高等教育に進んでいるんですね。今、もう完全な多数派になってきております。で、少子化の時代で子供たちが選びさえしなければ、大学等に行く事が出来るような時代になってきております。それは同時に、問題は有る訳でありますけれども、特定の大学における受験圧力という事は、まだまだ残るのかも知れませんが、高等教育全体として見た時には、受験競争の圧力は相当緩和されて来ておる。ですからこれからは、どの大学に入るかという事よりも、大学で何を学んだのかという事を、もっともっと、大切にしてくるよう時代になって来ている事も、これは事実であります。

 

用構造の変化

 私ども文部省も毎年、国家公務員試験を受かった者の中から、採用しておりますけれども私どもにとって、もう学歴というものは、大した問題では有りません。あくまでも公務員試験を受かってきた者を、後は面接の場で、本当にこの大学生がきちんとした社会姿勢があるのか。基本的な躾が出来ているのか。対人関係能力はあるのか。企画力は有るのか。という事を、何度も何度も面接を通して見極めた上で、採用するようなシステムになっております。ですから東大出たから採ろうとか、京大出たから採ろうという、発想はございません。確かにまだまだ、「国家公務員一種試験受かるのは、そういう大学しか、難しいじゃないか」と言う話も有るかも知れませんが、今、国家公務員一種採用試験は、別に東大・京大出ないと受からない試験ではございません。今本当に多様化しております。ですから昔は公務員になる者は東大・京大等々が多かったわけですが、今は本当に多様化しております。私立大学の方々も、中央官庁に沢山入ってきております。 私ども今回、面接で採用さしていただいた方も本当に沢山おりますが、東大はもちろんおります。京都大学、一橋大学、中央大学、早稲田大学、慶応大学、東北大学、名古屋大学等々、本当に沢山の大学の卒業生の方を、受け入れております。公務員試験を受かれば、後は、その人が力があるかどうかを様々な面接を通して、見極めるような事を公務員の世界でもやっておりますし、企業でもやっているわけですね。ソニーのように学歴不問の面接と言ってますが、そういった事は、今後は当然の事になってくると思うんですね。これまでのように、良い大学を卒業していれば、後は企業で教育しますよと言う時代は終わってしまった。企業もコストを削減しないといけない。その人が力があるかどうかという事を、採用の時点で見極めるようにそういう企業構造は変わって来ているんですね。企業もそれだけ余裕が無くなってきている。そうするとこれまでのように、企業内で再教育をするというやり方を改めつつある。採用の時点で力があるかどうか見極めようとしてきている訳でありますから、そこのところは学歴社会が変わってきているんだという事は、ご理解いただきたいと思っている訳であります。ですからこれからは、何を学んだかという事を、大切にしていく事を、皆さん方お考えいただきたいと思う訳であります。

 

新しい学力観

 今後の学校教育。もう今、お話ししたところから考えていただけるように20世紀から21世紀へ、後1年2ヶ月であります。そういう意味では、21世紀型学力観へ、発想を転換して行かなければならないのではないかと思う訳であります。「量の知識観」から「質の知識観」へ転換して行く。「教育」から「学習」に発想転換して行く。「教える」という事から「学ぶ」という事を大切にして、その「学び」を学校や地域や家庭で、組織して行く。それを指導する親御さんや先生方が、優れた教授を行うという事が、これからの学習では、大切なものになっていくと思う訳であります。今本屋さんで売れ筋の本というのが色々ございますよね。教育の世界では、「学級崩壊」と「学力危機」と言うと、本が売れるんですね。皆さん方、本屋さんに行くと沢山並んでいますよね。「学力危機」とか「学力低下」、「学級崩壊」と言うと本が売れるんですね。 中身が何も無くても売れるんですね。これからは、私、思うんですけれど、「学力低下」とか「学力危機」という事が、非常に言われてますけれども、今までお話しした事から見ると、「学力」って何なのかなという事をあらためて考えていただきたいと思うんです。皆さん方が「学力」を「知識の量」として考えているならば、学力の水準は少し低下する かも知れません。これからは学力を「知識の量、教え込む知識の量」から、「知識を使って、知力を使って考え出す力」という事に、発想転換していくならば、私は学力が低下したという事は、受け入れざるを得ないと思うんですね。知識で見るならば。知識の量や技術の量で見るならば。これからは、基礎基本の知識の量は、少しは前の時代よりも低下するかも知れないけれど、より多くの「考える力」を、頭を使って、知力を使って考えるような力を、教育の現場で、将来を通じて学べるような力を、子供たちに見付けさせる事を大切にしていくならば、私は社会人として立派になっていくと思います。今までの学校教育における「学力」というものは「学校的能力」です。今問題になっているのは、この「学校的能力」が、社会で通用しなくなりつつあるのではないかという、社会の側からの危機意識なんです。社会の側からの危機意識は、学校では知識は持っているけれど使い物にならない。学力が能力とイコールでないという事を今問題にしています。だから今の学力を、もっと社会に一般的に通用するような能力にしていく為に学校教育はどう取り組んでいくか、家庭でどう取り組んでいくかという事を考えていく必要がある。その時に、今、落ちこぼれとか、色んな問題が有りますけれども、今までのように、量でとらわれると、やはり量だけではどんなに出来る子も、頭を使わないで、知識を詰め込むだけになってしまいます。 分からない子は、量がアップアップで勉強が出来ない。分からない。学習の進度の遅い子にはついていけない。という事になった訳であります。一つの例えでありますけれども、今まで、100教えていた事が身に付いたのは半分だ。50だったとするならば、内容をちょっと、3割ぐらい削減しましょう。70。100を70にしましょう。その代わりに全ての子供に、この縮減した精選された知識の量については、きちんと身につけさせましょう。7割教えたら歩留りもありますが、6割身に付けさせましょう、という事であれば、従来の知識の量と遜色ない訳であります。ですから私どもは、教えるべき基礎基本の内容を厳選して、厳選したからにはきちんと教える、という事をやる。これが大事だと思うんです。新しい教育改革は、学校の中で教えなくて良いではないかというような、学力低下を 煽っているんではないかというような、為にする議論も時々ございます。そんな事は全くございません。基礎基本の内容を厳選しながら、考える力を身に付けさせる方向に、転換していこうという事を、我々は大切にしていこうと、思っている訳でありますので、その点はよくご理解いただきたいと思います。国立大学の学長さんが、この間意見を表明していたんですけれども、大学入試センター が行った、国立大学の学部長さんの、意識調査というのがございまして、「学力が低下していると思うか」という調査なんですけれども、8割ぐらいの学部長さんが「そうだ。学力が低下している。」と答えているんですね。だから学力が低下しているじゃないかという議論になるかもしれませんが、このときに 面白いのは、国立大学の学部長さんが、「学力低下していると感じる理由はなんですか」と聞きますと、「論理的な思考力が乏しい」「自主的な問題取り組みの意欲が乏しい。これがやはり、学力問題を考えるときに、非常に深刻な問題だ」と言っております。今の大学生は、社会人になっても同じですが、指示待ち族と同じです。何を勉強したら良いのか分からない。レポートも何を書いて良いのか分からない。自主的な取り組み精神、そして物事を考えて、知識の量は少しあるのかも知れないけれど、それを組み立てて、一つのテーマに沿って、何かを考え出すという、論理的な思考能力が弱い。概念理解が弱い。この事を国立大学の学部長が問題にしています。ある大学の先生が、卒論指導をしようという時に、その学生が「何を卒論のテーマに したら良いか教えてください」と言う。自分で何をしたら良いのか分からない。 昔は考えられなかった事ですけれども、今の大学生は当たり前なんでしょうかね。自分で何をしたら良いのか分からない。しかし、こんな人が大学を卒業して、企業に来て貰っても困るんですよね。企業の中で、自分で課題を見付けて、その課題に取り組んで、何か商品開発なり、何か新しい営業利益に、結びつけていくような事でないといけない訳で、問題に自主的に取り組まないような、意欲に乏しい子供を、学校教育の中で大量に養成している訳にはいかない。それが小中学校の中で、知識を植え付ければ良いんだというやり方をしていれば、これはそういう子供は作られてきますよね。知識を刷り込んで、知識だけが全てだよという考え方を、知識を刷り込むと同時に、子供たちにそういう考え方を身に付けさせれば、子供たちが学習という事について、受動的になり、指示待ち族になるのは、これはある意味では当たり前な訳で、子供たちに 小さい頃から、単純な簡単な事で良いから自分で考えさせる。自分で学ばせる。 自分で体験させる。そういった活動をさせる事が大人になった時に、とっても大切なんではないでしょうか。自己学習の力を育てる 河合隼雄さんという、皆さんご案内の通り臨床心理学で有名な先生ですけれども、この方が言ってますが、「子供の時代に、遊びを通して得られたイマジネーションの力、想像の力というものは、大人になった時に、想像的な仕事をするときに大きな根っこに 成るんだ。子供時代に、遊びを通してイマジネーションを培ってこないと、大人になった時に、創造的な仕事に参与できないんだよ。」という事を、『学校と子供』という本の中で書いております。またお読みいただきたいと思うんですけれども、子供時代に浴びるほどの体験活動や、浴びるほどの自然活動、家庭でのお手伝い、そういう中で子供たちは、体験を通して学んでいく事が大切なんであります。特に子供時代は大切であります。次第にこれが中高学年になってくれば、教科学習という抽象的な学習に移行していく訳でありますが、小学校時代から一生懸命塾通い。一生懸命文字や記号を覚える。これだけでは、子供は体験と切り離されてしまう。そういう知識というものは、子供たちになかなか身に付かないのではないでしょうかね。気持ちとして私も同じであります。私も2児の親、今大学1年と高校2年ですが、子供の教育は、人の親として色々心配をしてきました。ですけれども自分の子供を育てる時にも、つくづく思ったのは学習する時には子供たちが、自分について「自信を持つという事」、「将来に対して夢を持つ事」、と同時に、学習していく時には、何が基礎基本なのか、基礎基本だと思った事は徹底的にドリル学習も含めて身に付けていく。自分で色んな文献に当たって、勉強していくような「自己学習の力」、これが今の小学生の学級崩壊の問題でもそうなんですけれども、自己学習していく学習態度を、子供たちが自覚的に身に付けていく事の弱い事が、学級崩壊の時にも、問題になってきている訳なんですね。学習態度をどう身に付けさせるのか。45分間の授業、50分間の授業を子供たちが学習を持続させるような力を、どう堅持出来るのかという事を、家庭でも考えていかないといけない。学校の先生方も、私たちは、子供たちが45分、50分間、針のむしろの上で一斉授業をやっていたら、これは堪らないかも知れませんね。今私がお話ししているお話も一部の方々には、堪らないお話なのかも知れませんけれども。これは、一方的にお話しするとですね、聞いている方は大変疲れます。これは、皆さん方が子供だと思えば、子供たちの苦労も分かると思うんですよ。子供たちが、やはり教えられている事に対して興味や、意欲や、関心を持てるようにやる。それからもう一つ、一方的に聞いているだけでなく、子供たちがもっと、その事に参加できるようにしないといけない。アメリカの学校教育は、色んな形で、色んな教材を使って子供たちが手で触れて、触って、試してそして考えてという、いわゆるハンズオンの教育というのですかね、ハンズオンの教育をやっているんですね。日本の学校教育の中にも、もっともっと記号や文字だけの教育じゃなくて子供達たちに、もっともっと体験させていくような、学習をやって行かないといけない。特に小学校段階では、非常に大切だと思う訳でありますね。そういう事を抜きにして、幼稚園では、色々体験活動をハンズオンやって来たのが、小学校1年生に入ったら急に「あいうえお」の勉強から始めましょうとか、「九九」から始めましょうという、干からびた記号と文字だけの教育をやられたら、やっぱり子供達は、こうなってしまいますね。ですから、どういう形で、幼稚園教育と学校教育をつないでいくのかという事が、学級崩壊を考える時に大事だ。ですから「家庭が悪い、幼稚園の自由保育が、今回の学級崩壊の問題だ。」とか、色んな事を言われますけれども、色んな複合的要因が、学級崩壊を取り巻いております。ですから家庭の場合には、学級の中で子供たちが学び続ける45分間、50分間、学び続ける学習の態度を家庭の中できちんと作っていく。幼稚園では幼稚園の中で、社会性を身に付けさしていく。そして次第に年長さんになれば、君たちは小学校に行くんだから、45分間学び続ける学習態度を、身に付けていかないといけない。小学校の先生は先生で、幼稚園から急に、教科学習で干からびた、抽象的な教育というのに入らないで、もう少し円滑な移行が出来るような、実物を通した学習、ハンズオンの学習というものを組み立てていく。それを次第に抽象的な教科学習に、切り替えていくという、そういう取り組みが 私は必要だと。そういう意味で学校の教師が、幼稚園に責任転嫁したり、家庭に転嫁したり、ないしは家庭の方が、教師の指導力が低いんだからといって、批判を転嫁したりと いう事では、この問題は解決しない。

 

子供の興味・意欲・関心と教育

 これは非常に複合的な問題ですけれども、どうか私はもっともっと実物教育というものは小学校の段階では、やって頂きたいなと。 興味関心が、やっぱり子供たち湧かないんですよね。興味関心をどう湧かせるかという事が大事なんですね。学校の外には、子供たちにとっては刺激的な環境がある。学んでいる事より楽しい環境が、沢山あるある訳ですから学校の中で、 学ぶ事が楽しいという事を、どういう風に興味や意欲を引き出していくかという事を、学校の先生方は考えないといけない。「子供たちが学ばないのが悪いんだ。」という事では、私は駄目だろうと思う訳であります。その意味で、これからの教育というものは、基礎基本を重視する。考える力を身に付けさしていく。それと同時に大事なのは、今言った、興味・意欲・関心をどう引き出していくか。「好きこそ物の上手なれ」もお話ししましたけれども、子供たちが学ぶ事に対して、興味関心を持たなければ、たぶん子供たちは学び続けないんですね。学習に意欲や関心が起こらない。これはですね、私思うんですけれども、ブルーナーというアメリカの教育学者もアメリカの教育改革を、30年前にリードした人なんですけれども、「教育の優秀性を掘り起こすという事は、何を教えるかという事ではなく、どう教えるかという事と、子供たちにどう興味や意欲関心を、引き出すかという事が、大切なんだ」と言ってる 訳ですね。「動機付け」という事を、大切にしないといけない。これからの新しい学力観の中で、大切な事は、子供たちの興味や関心を、どう引き出すか という事を、家庭でも学校でもやって頂きたい。家庭の中でも、「何か覚えればいいのよ」という事で、すぐ母親や父親は、言いがちになるんですけれども、子供たちが自然な疑問を持った時に、「どうしてなのかな」と 一緒になって考えていくような事を、家庭の中でもやって頂く。学校の中でも、もう少しゆとりの中で、子供たちの素朴な疑問を引き出して、「どうしてなのかな」という事を学習で組織して頂く必要がある。どうも日本人はせっかち過ぎますね。すぐに教え込む。「分かれば良いのよ。」、結果主義なんですね。プロセスを大切にしない。もう少し、学習という事は、プロセスを大切にする事が、本当の意味での学力を、身に付けさせる時に大切なんじゃないでしょうかね。塾はある意味では、徹底的にこれを合理化して、結果制という主義ですから、もうプロセスは問題ない。正しいか正しくないか。より多く情報を身に付けるかどうか。その事を塾は徹底して合理化しているんです。しかし、結果だけを重視するような教育では、これは私は駄目だろうと思うんですね。

 

家庭教育の問題点

 塾の関係者にいつも、申し上げているんですけれども、結果さえ良ければいい、知識さえ教え込めばいいと言う発想は、間違っているだろうと。そして、母親の方々に申し上げたいのですけれども、塾通いや教え込みで一番問題になるのは、お子さんが「いびつな学力観」を持つだけでなく、非常に「依存的なパーソナリティ」を子供たちが持つんですね。「心の教育」の問題を考えていく時に、ちょっとお考え頂きたいと思うんですけれども、早期教育、お受験、それから色んな塾に通わせる。こう言いますと皆さん、子育て不安を持っていますから、小さい頃から早くお勉強させようと、一生懸命走っちゃっていますよね。そうしますと、知識を少しでも身に付ければ、九九が出来る。漢字が書ける。「良かった良かった。」と思っていますよね。お子さん方は母親が「重要な他者」、いわゆるG・H・ミードという社会学者が 言ってますけれども、「重要な他者に依存していく気持ち」を子供たちが持っちゃうんで すね。他者依存型のパーソナリティを、子供たちが身に付けていく。「他者依存型」になっていく訳ですから、子供たちが自立できないんですね。 乳幼児の時期は、親と子の絆、溢れるほどの愛情の中で、養育をしていくという事は大切であります。ですから、依存というものはあります。しかし、「依存」から「自立」という事は当然、子供が社会人になってく時に出てくる訳ですが、今の日本の社会や、日本の学校や、日本の家庭は、依存の次は依存。自立がないんですね。社会性が無くなってきているんですね。人間も動物なんですけれども、ご案内の通り、動物の世界には「巣立ち」というのが 有りますよね、必ず。依存、当然生まれてきた雛鳥なんかには、親鳥は餌を与える。しかし、ある一定の時になったら、親は餌を与えなくなる訳ですね。「巣立ち」を強要する訳です。餌も与えない。餌を貰えないで泣きわめく子には、巣から追い落とす事もする。いわゆる「巣立ち」の時期が来たら、雛は巣立って行かないといけない。いずれ自立して行かないといけない。しかし、人間の社会には今、自立が無くなってきている。他者依存型のパーソナリティを、この教育という事を通じて、子供たちにどんどん刷り 込んでいるんですね。ローレンツのインプリンティングというのは、よく出てくるんですけれども、 雛鳥が生まれてくると、最初に見たものを親鳥として勘違いする、インプリンティングと 言うのがありますけれども、これ笑っていられないんですよね。 親鳥でなくても、人間を最初に見ると人間が親鳥になってしまう。 ローレンツのインプリンティングという、刻印付けというのがありますけれども。笑っていられないと言うのは、要は人間でも、依存、依存、依存。他者依存型のパーソナリティをどんどん身に付けさしていく。日本の学校教育、日本の家庭教育は、そういう依存型のパーソナリティを、「教え込み」という中で、子供たちに強要している。それはそれで知識が増えれば良いじゃないかという時に、子供たちが、他者依存型のパーソナリティをどんどん見付けていくと、同時に、本当の自分と他者に会わせようという、重要な他者である母親の期待に添うように、自分を作り出していく。いわゆる、分裂型の人間が心理学的には出てくる訳です。そこのストレスが子供たちの中にある。そうすると、そのつけは思春期に払わないといけない。思春期に「負の貯金」というのですかね。他者依存型の「自分でない自分」というものを作り出して、そして親に気に入って頂けるような子供になろうとする。だけどもどこかで成りきれない。ないしはもうこれ以上したくない。そこで爆発が起き、それが不登校の問題や、家庭内暴力や、いろんな問題に発展していく。子供たちが「本当の自分はそうじゃないんだ。」、しかし重要な他者である母親や父親に、自分のイメージを合わしていこうとする。そういう中で、他者依存型のパーソナリティは、どこかで破綻を迫られるときが出てくる。これが、今の日本の問題原因の大きなポイントであるのではないかと思う訳であります。これは、どうか家庭教育に当たられる皆様方が、もう少し子供たちの巣立ちという事を考えるように、教育に当たって頂きたいと思います。

 

これからの教育を考える視点

 それと教育の問題を考える時にはですね、皆さん、知識の量に囚われるんですけれども「心の育ち」を大切にして頂きたい。特に早期教育、小学校教育を考える時には、頭でっかちに考えてはいけない。教育というのは知・情・意ですよね。「知識」と「情動的なもの」、「意欲的なもの」この3つが合わさって、 初めて学習というのは成り立つ訳で、どうもですね、知識中心主義になる。もう少し子供たちの、情動的なものとか、意欲的なものをこれからは、大切にしないと駄目じゃないか。それと体験に裏打ちされたもので無いといけない。確かに間接的な経験というものはあります。しかし、もっと直接的な体験、様々な体験活動を通じて、知識が内面化されていく。体験の伴う知識、動機付けの伴う知識、心の育ちを大切にした知識、こういった事を教育や学習の中で、考えて頂く必要があるのではないか。これからの学校教育、家庭教育というのを、教えるという一方的なものから、子供達が学ぶ、その子供達が学ぶという事を、どうやって組織していくのかという事を大事にしていただきたい。その時には、これまでの学習が受動的であった訳ですが、もっと能動的に、もっと自発的に、そして記憶に頼るのでなくて、もっと知力を使えるものに。そして教師主体のものでなく、生徒主体の、発見の学習の過程に切り替えていかないと、新しい教育改革というものは、うまくいかないんですね。 知識の量で考えていく発想から、もっと学校教育全体を、総合的に捉え返していかないといけない。そうすると家庭の方々の、親御さんの教育についての考え方も、もっともっと、膨らまして頂かないといけないし、学校の先生方の指導力も、もっともっと向上しないと、学習中心の教育というものを、組織化できないと思うんですね。私はその意味では、これから学習中心の教育という事を考えると、教師の指導力というのは、とても大切になってきます。どんな教育改革を言っても最終的には、教育改革を支えるのは教師なんですね。教員の力に待つとこが大なんです。教師が力を発揮しなければ、教育改革は絵に描いた餅に終わります。ですから、これからの教育改革というものは、教員の指導力はどれだけ重視するか。教育から学習に転換していく中で、学習を組織する指導者としての教員の力を、どうやって引き出していくかという事が、これからは大切になってくるんだ。子供たち中心の、子供たちを基礎においた学習を、組織するように考えて頂きたい。その時に教師の評価活動について一つだけ言いたいんですが、これは親御さんもそうなんですけれどもね、私は学校の先生方には申し上げ難いんですけれども、テストという時にですね、得た知識をテストで試すという「行き止まりの評価」と言うんですかね。行き止まり、というのは「そこで、テストで、お終いよ。それからは先は無いよ。」 これからの評価活動というものは、何を教師が教えたかったのか、子供たちは何を学んで欲しかったのかという事を、テストの中で試していく。してもし、テストによって子供たちがつまずいているならば、これは子供たちが 悪いのではなくて、どうして子供たちがつまずいたのか。 自分の教え方に問題があったのではないか。教材の提示の仕方に問題があったのではないか、という事について反省の材料にして頂いて、次の指導に活かして頂く。「行き止まりの評価」から、「そこから何かが始まる」評価に切り替えて頂く必要がある。私は教師というものはですね、子供たちを教えていく時に非常に大切な、これは親御さんもそうなんですけれども、子供をどう見るか、子供の見方というものを、教師も持っちゃっていますね。親御さんも持ってる。「うちの子は出来る。」「出来ない。」「これ駄目なのよ。」とか。私も持っちゃってるとこがあって、反省してるんですけれども。子供の見方というものをですね、非常にステレオタイプで持ってるんですが、見方を変えれば子供の見え方が変わる。ですから親御さんも学校の教師もそうなんですけれども、今日見ている見方を、明日もう少し見方を変える。そうすると子供の見え方が、変わってくるんじゃないか。ですから、色んな先生方の話を聞いてくれば、あるAというお子さんが、自分からはこう見えるけども、ほかの先生からは別の見え方がある。この子供は非常に多面的な子供、こういう良い所があるんだ、というふうに見えてくる。もう少し子供というものを、丸ごと全人格的に受け止めて、子供たちの良い所を見ていく。やっぱり評価という問題は、教師の人間観や教育観が試されるんですね。これまではどうもテストは結果主義に陥ってた。もうすこし子供の見方を、日々変えていく。親の欲目というものは、先生方も持って頂きたい。親はもっともっと、子供たちに欲目を持って貰いたいと思うんですよね。「子供たちはダメなのよね。」自分も、つい言ってしまう事があるんですよね。できが悪いときは、言ってしまいがちなんですけれども、親が子供を信頼してあげないと、子供は誰からも信頼されなくなってしまう。やっぱり、親は欲目で見てあげたいものです。 もっともっと子供たちを誉めてあげたい。自己の有能さに気付かせてあげたい。「無力感」、今子供たちが無力感、「どうせ、やったってダメさ。」という気持ちを、持っております。この無力感というものは、学習によって獲得される。教える、出来ない、教える、出来ない、そういう事を何度も繰り返せば、「どっちみち俺は出来ないんだ」となる訳です。心理学でも何度もやると出来る訳ですね。無力感も学習によって達成できる。学校や家庭でも、出来ない、出来ない、出来ないという事が積み重なれば、「俺はどっちみち、やっても出来ないのさ。」という事になるんですね。そうじゃなくて、子供たちにもっと出来る課題、ちょっと背伸びすれば出来るような課題を、学校でも家庭でも与えて、出来れば誉めてあげる。そうしてもう少し難しい課題を与えて、出来るじゃないか、もっと出来るようにやってみていったらどうか、という事で子供たちの意欲や関心や、子供たちの自己有能性というものを、引き出していく。学校でも家庭でもやって頂きたいと思う訳であります。これからは、学校・家庭・地域社会が三位一体となって、子供たちの「学び」というものを、考えていかないとうまくいかない。これまでのように、今の学校教育を取り巻く問題で、学校が悪いから、家庭が悪いから、地域が問題だからと言ってるだけでは問題解決しない。それぞれが「リスポンスビリティ」、責任を持って、子供の教育に当たっていく。相互に連携して、その事を抜きにして、21世紀の子供作りというのは、出来ないんだろうと思います。知識の量で考える学習でも駄目であります。もっともっと皆様方が、子供たちというものが、人生80年時代、学び続けるような力を身に付ける。そのためには子供たちが、自己の有能性、自己に自信を持つことが出来るように、将来に夢を持つことが出来るような子供に、学校で、家庭で作り上げるようにして頂きたい。そうすれば、子供たちは、自立的に学んでいくことが出来ると、私は思う訳であります。その意味でどうか、私も親の一人としては、そういう考えで、今後も望んでいきたいと思っている訳でありますが、此処にご参集の皆様方も、学校・家庭・地域社会の中で、我々の未来である子供たちの、教育のために、どうかご尽力を頂きたいと思います。21世紀は、子供たちが作る訳でありますから我々の未来は、今に懸かっている。今の教育に懸かっている訳でありますから、この奈良県PTAの50年の歩みを、らに進めて頂いて、この奈良県の学校や家庭や地域社会の中でも、子供たちを育むような環境や子供作りというものを、どんどん進めて頂いて、21世紀は我々にとって輝かしいものになるように、皆様方のお力を頂きたいと思うわけであります。私共、文部省と致しましても、最善の努力を払いながら、条件整備に努めていきたいと 思っております。私たちは、金は出すけどあまり口は出さないように、方向性は示すけれども具体的な処方箋は、各学校で、各地域で考えて頂くように、これからは、住民に身近なところで、地域に身近なところで、色んな事を考えていく時代であります。地域が創意工夫を凝らしてやっていく。地域の方々がもっと学校の活動に関わっていく。ですから、これからはPTAが学校活動に、教科学習だって関わっていかないと行けない。教員を助けて、教科学習にも関わっていくような、そういう時代になってきている。ですから、これからは学校の先生方も「なるべくPTAは来なくて良いよ。」じゃなくて、もっともっと垣根を取り払って、地域の方々にも力を頂こう。家庭にも協力して頂こう。学校も地域に出ていこう。総合学習もそうでありますが、そういう相互乗り入れの時代になってきています。そういう中で、相互の連携の中で、本当の教育が行われていくんだという事を、皆様方にお願いして、私からのお話にさして頂きます。            

ご静聴、どうもありがとうございました。